芹沢光治良略歴と代表作
芹沢光治良 略歴
【作家。 1896年(明治29年)-1993年(平成5年)。妻、金江。娘、万里子、朝子、文子、玲子。】
- 1896(明治29)年5月4日 静岡県駿東郡楊原村我入道(現・沼津市我入道)に生まれる。
- 4歳にして、父母が光治良以外の子供を連れて無所有の伝導生活に入ったため、叔父夫婦と祖父母に育てられる。
楊原尋常高等小学校(現・沼津市立第三小学校)、沼津中学校(現・県立沼津東高等学校)を卒業後、沼津町立尋常高等小学校(現・市立第一小学校)の代用教員を経て、第一高等学校文丁(仏法科)に進学。卒業後、東京帝国大学経済学部に入学、養父として慕った実業家・石丸助三郎の麻布の家に寄寓する。
在学中に高等文官試験に合格し、26歳で大学を卒業後、農商務省に勤める。 - 28歳の時、秋田営林局に赴任。翌年東京に戻り、愛知電鉄社長藍川清成とその妻・藍川しむの次女金江と結婚。
石丸の薦めで渡仏。ソルボンヌ大学に入学。 - 31歳の時、長女万里子誕生。同年結核にかかる。
フランス、スイスで療養し、そこで作家になることを決意。 - 32歳の時、帰国。『ブルジョア』が改造社の懸賞小説で一等に当選。
中央大学で講師を始めるが、東京朝日新聞掲載の『明日を逐うて』が学長の目に入り、小説をとるか大学をとるかと迫られて退職。 - 『巴里に死す』、『サムライの末裔』によりフランス友好国際大賞、代表作である大河小説『人間の運命』により日本芸術院賞を受賞。
- 第5代日本ペンクラブ会長、日本文芸家協会理事など数々の役職を歴任。
- 平成5(1993)年3月23日、東京都中野区東中野の自宅において逝去。享年96歳。
芹沢光治良 代表作品
●芹沢芹沢文学は最も取り組みやすい日本文学のひとつであると思います。
その理由は「誰にでもわかる言葉」で書かれているためです。優れた作品を書く作家は何人もいますが、誰にもわかる言葉で書く作家は多くはいません。人間への深い洞察と愛を感じさせる文章です。
作品名 | 発行年月 | 出版社 | 備考 |
---|---|---|---|
ブルジョア | 昭和5年7月 | 改造社 | デビュー作 |
愛と死の書 | 昭和14年7月 | 小山書店 | 作者はこの作品のために従軍記者として中国に渡っている。 |
巴里に死す | 昭和18年3月 | 中央公論社 | 作者初の仏訳された作品。 |
孤絶 | 昭和18年10月 | 創元社 | 生命の尊厳に正面から取り組んだ意欲作。 |
離愁 | 昭和20年12月 | 全国出版 | 『孤絶』の続編。 |
故国 | 昭和24年8月 | 全国出版 | 『孤絶』『離愁』に続く3部作の終章。 |
一つの世界(サムライの末裔) | 昭和29年4月 | 中央公論社 | 1955年5月20日ロベールラフォン社より仏訳版。 |
教祖様 | 昭和34年12月 | 角川書店 | 天理教教祖中山みきの生涯を作者の視点で書いた伝記。 |
人間の運命全14巻 | 昭和37年7月~昭和43年11月 | 新潮社 | 明治・大正・昭和の激動の時代を舞台にした、芹沢光治良の自伝的歴史大河小説。 |
神の微笑 | 昭和61年7月 | 新潮社 | 最晩年の『神シリーズ』第1巻。 |
戦中戦後日記 | 平成27年3月 | 勉誠出版 | 戦中戦後の日本知識人の暮らしと思いを知る、貴重な資料。 |